思い出で綴る・所沢ふるさと散歩(所沢町編)
歴史を知ることで、所沢のことがもっと好きになりますように・・・ (所沢なび編集部)
町の開発と共に大きく発展し私の幼少時代の面影を残す物も少なくなっています。
少しでも昔の所沢の町の様子が皆様にお伝え出来たら幸いです。
所沢市における「マチ」地域は、通常「旧町地域」をさしていました。
Ⓒ所沢ふるさと散歩(三上博史制作HPより)
東川とほぼ平行して東西に延びる主要地方道練馬・所沢線(銀座通り)沿いで、西は主要地方道東京・所沢線(行政道路)と交差する金山町交差点あたりから、東は一般県道久米・所沢線(昭和通り)と交差する通称根岸の交差点(現ファルマン交差点)あたりを指していました。
江戸期から明治期にかけて、旧鎌倉街道と東川の交差するあたりを「河原宿」(現宮本町)
その南を「本宿」と呼び、江戸道(銀座商店街)西から「上宿・本町」、「中宿・元町・寿町」、「下宿・御幸町」、薬王寺付近を「浦宿・有楽町」、現在の御幸町、東町付近を「植の宿」と呼んでいました。
私はファルマン交差点の商家で生まれ育ちました
武蔵野台地のほぼ中央にある所沢市にはいつ頃から人が住み始めたかは明らかではありませんが昭和41年に三ヶ島の砂川遺跡、その後、下安松、荒幡、北野からも先土器時代の石器が多数発掘されていますので、少なくとも一万年以上前から人々が住みついていた様です。
奈良・平安時代になると、中央官庁と武蔵国府とを結ぶ主要道路が市の中央を北から南へ走り、旅人の難儀を救う為に天長10年(833年)に武蔵国悲田処が市の南端にあたる大字久米付近に造られました。
鎌倉時代になると、この道路は鎌倉街道と呼ばれ、これを主軸として元弘3年・小手指ヶ原の戦い等が行われました。
中世に新光寺界隈の「鎌倉街道」沿いに民家が出来始め、江戸時代に江戸と秩父を結ぶ往還道「江戸道」(銀座通)沿いに広がり宿場町・街道町が形成され「三八の市」が立つ町場として地域経済の中心として発達しました。
▲大正5年頃の三・八の市の風景 現:銀座商店街 Ⓒ所沢ふるさと散歩(三上博史制作HPより)
江戸後期から明治期にかけては「所沢飛白」と呼ばれる綿織物の一大集散地として賑わい、明治30年代には全盛期を迎え、「蔵造り」の商家が競い合う様に軒を連ねていました。
明治9年に埼玉県に所属し、同14年に所沢町となりました。
再開発で高層ビルが建ち並び、すっかり様変わりした町を幼い日の想い出話と昔の写真で振返りながら所沢ふるさと散歩へとご案内します。
次回の昔の所沢紹介もお楽しみに。