元気なスーパー老人勝海舟の「書」!


ボランティアライターの“ぶん”です。

今回は「野老澤町造商店」後方、齋藤家にまつわる江戸末期から明治初期にかけて活躍した人「勝海舟の書」の話です。

勝海舟は1823年、江戸の武士の家に生まれ、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術を学び、長崎では最新の学問や航海術などを学んだ。

1860年には咸臨丸(かんりんまる)という蒸気船に乗って、福沢諭吉、ジョン万次郎(通訳)と共にアメリカに渡った。また「書」の達人でもあった!

 

以前紹介した、齋藤家で、明治16年(1883年)明治天皇は演習天覧のため飯能に行幸しました。このとき、行在所(あんざいしょ)として定められたのが、町の有力者であった齊藤与惣次(さいとうよそうじ)家です。明治天皇がお泊りになった部屋に「勝海舟の漢詩屏風」が飾られてあります。

所沢に明治天皇が宿泊されたときの記事は→こちら

 

【勝海舟の書】
誰教大鼎弄群児
只見蒼生苦荊岐
鳴呼吾主高儀家
如何憤怨及我私
古住今来克已如此
上下千年任天知

 

【意訳】
だれが国を統治する者たちに臣下をもて遊ぶようなことをさせたのだろうか。
今はただ民が厳しい判断に苦しむ姿を見るだけである。
我々の主は、高い位の家柄であるのに、どうして憤りや怨(うら)みを買うようになったのであろうか。
昔も今も変わらず同じことをしている。
上も下も永遠に天に任せるしかないと思うのである。

 

 

今から151年前、1867年、江戸幕府最後となる15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷側(天皇)に返上した大政奉還があった。その後も国内の動乱は続き、翌1868年、戦いを避けたいと薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府派の勝海舟の話し合いによって江戸城を平和に渡すこととなった。当時100万人以上が住んでいた江戸の町を戦火となることなく江戸の無血開城が実現したのです。


【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】

勝海舟は後江戸から明治となってからは、隠居先の静岡でたくさんの趣味を満喫する生活を送り、67歳の時に30年以上前のことを細かいところまで記憶しており「海軍歴史」21冊をまとめ、翌年には「陸軍歴史」30冊にまとめ、晩年まで抜群の記憶力だった!

なぜ勝海舟は歳をとっても頭が健康だったのでしょうか?
実はそこには訳があったのです。
静岡での第2の人生で勝海舟は旧家臣の生活を立て直すのに懸命で、明治維新政府後、旧家臣たちは失業し、日々に生活に困り果てていた。

徳川幕府の実質的なナンバー2だった勝海舟は「書」は町で売れるほど有名人だったのです。自分の「書」がお金になると知っていた勝海舟は、自ら書いた書を旧家臣に与え、売らさせて生活費の足しにしていたのです。

「女学雑誌」の文献に「勝先生は多い時には書を1ヶ月700枚ぐらい書き、1枚書くのに30秒もかからなかった。しかも、話ながらチョイチョイと書いていたんです」

ポイントは「雑談」しながら「“書”を書く」こと、別々の仕事を同時に行うことが脳を若々しく保つことが効果的なのか?つまり二つの課題を同時にすることで、 日常生活の中では、歩きながら会話をする、テレビを観ながら家事をするなど。

 

脳機能の専門家の篠原先生は「書きながら会話をすることで前頭前野を中心に脳の活動が高まり脳トレーニングになっていると思われる」と!

 

脳の機能が衰えると自律神経系の調節に問題が起こり、体温、血圧、心拍数の維持に問題が起こるなどさまざまな悪影響を及ぼす。脳は心臓、肺、胃腸など働きを調整する役目がある。身体を健康に保ち長生きするには、脳機能の低下を防ぐことが必要なのです。勝海舟は77歳という長寿を全うできた。

明治12年に勝海舟が書いたのぼり旗1旒(ながれ)

先々代斎藤与惣次氏の交流から勝海舟、山岡鉄舟などの書も残り、建物全体が所沢の歴史的価値をもったところです。是非月一回開催される「明治天皇行在所跡」の見学会に参加してください。

明治天皇行在所跡の見学会
場所:野老澤町造商店集合
申し込み連絡:文化財保護課 0429989253
野老澤町造商店 04-2928-1453

 

参考文献: 勝海舟 明治・大正時代 偉人たちの健康



記事の執筆者プロフィール

ぶん Bun
ぶん Bun ライター
2016年10月“所沢なび”ボランティアライターとして生まれたボクの名前は「ぶん」! 仕事は、所沢を中心に身近にある自然やおいしいもの、楽しいものを見つけみんなに知ってもらうこと。 魅力いっぱいの「所沢なび」これからもよろしくね。

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