奈良 ・ 平安時代の所沢に国道があった!
「所沢なび」ボランティアライター“ぶん”です。
今回は市立南陵中学校を中心とした「東の上遺跡(あずまのうえいせき)」を紹介します。
今から20年以上前の事になりますが、テレビを観ていたところ、レポーターが所沢を散策しながら南陵中学校フェンスに掲げてある遺跡を紹介していました。当時私は遺跡には興味ありませんでした。そこで今回南陵中学校へ確認に行ったところ、フェンスには無く、正門横に今年3月に新しいものが設置してありました。
南陵中学校正門「東山道武蔵路」案内板
今から約1350年~1000年前の奈良 ・ 平安時代、所沢に国道があった!
西暦600年代の中頃、大和政権は日本を中央(五畿)と七つの地方(道)、五畿七道(ごきしちどう)に分け、都と地方とをつなぐ官道を整備しました。「東山道武蔵路」はその一つで、都と信濃 ・武蔵 ・ 陸奥などの国々を結ぶ官道の名前であるとともに、地方名でもありました。
【五畿(畿内)】ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせた地域。
【七道とは】東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。
南陵中学校正門横「東山道武蔵路」案内板
さて、本題になります。
所沢市南住吉 ・ 久米地区に奈良時代・ 平安時代の「東の上遺跡」があります。今から44年前の昭和50年(1975)から調査が行われて、これまで99回の発掘調査が行われました。南陵中学校を中心として東西1キロ、南北300メールの地域のこれまでの調査によると旧石器時代・ 縄文時代 ・ 弥生時代 ・ 奈良時代 ・平安時代 ・ 近世の6つの時代にまたがる複合遺跡であることが確認されています。
中でも平成元年(1989)10月、南陵中学校で雨水対策の貯留浸透工事に先立ち、校庭部分の発掘調査が実施され、「東の上遺跡」第36次調査で奈良 ・ 平安時代の古代の幹線道路が見つかり、当時このことは各新聞社が一斉に報道されたようです。
調査では全長100メール、幅12メールの道路跡は、7世紀後期に建設された、古代律令制国家においての、都と地方機関を結ぶための幹線道路の一つである「東山道武蔵路(とうさんどうむさしのみち)」と考えられている。道路が作られた当時、武蔵の国府が置かれていた東京都府中市や、国分寺が創建された国分寺市からも12メールの同様の道路跡が発掘さてており、「東の上遺跡」の道路跡は、そのほぼ延長線上に造られています。
南陵中学校校庭「東の上遺跡」第36次調査当時
これまでの調査で総延長300メールまで確認されています。また奈良 ・ 平安時代の竪穴住居跡300軒、掘立柱建物跡100棟、道路遺構2条が検出されています。
遺物に関しては、墨書土器(ぼくしょどき)、朱墨付着硯(しゅぼくふちゃくすずり)、漆紙文書(うるしがみもんじょ)、鉄製馬具、馬の歯、金環(きんかん)、丸鞆(まるとも)など、一般集落では出土しない遺物が多数出土しているそうです。中でも朱墨書土器や転用硯に付着する「朱」は、公文書等の訂正や注意書に用いられたと考えられるそうです!
【馬具(鉄製)】 奈良・平安時代
赤い部分が馬具
【墨書土器(ぼくしょどき)】
墨で文字が書かれた土器のことで、特に坏(つき)に多く見られます。
【馬の歯】 奈良・平安時代
【炭化米】 奈良・平安時代
掘立柱建物跡の柱穴から出土!米を保存していた倉庫が火事にあって蒸し焼きにされて形のままに炭になったものです。
【刻書土器】
焼成前にヘラで文字や記号が刻まれた土器のことで、特に坏(つき)の底面や内面に見られます。「x」や「w」などの一文字記が多く、土器製作地における分類などを表していると考えられるそうです。
「X」の一文字
「w」の一文字
【漆紙文書(うるしがみもんじょ) 具注暦・馬の絵】
表に「具注暦」、裏面に馬の戯画が描かれた漆紙文書。
平成21年4月、「東山道武蔵道」を含んだ南陵中学校校庭の埋没している遺構群が市の「指定文化財」に指定されました。
「東の上の遺跡」で発掘された貴重な遺跡は所沢市立埋蔵文化財調査センターで見ることができます。奈良時代 ・ 平安時代にタイムスリップして、現実の時間・空間から過去へさかのぼってみるのはいかがでしょうか?
所沢市立埋蔵文化財調査センター
住所:埼玉県所沢市北野2丁目12−1
電話番号:04-2947-0012
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参考文献: 東の上の遺跡 (第3,24,49集) ・ 所沢市史(上)・ 埼玉の遺跡 ・ 日本古代の道路と景観 ・ ところざわ歴史物語 ・ 埋蔵文化財調査センター内資料