所沢で東京オリンピックが開催された!
「所沢なび」ボランティアライター“ぶん”です。
2020年東京オリンピックまで 1年!※2021年夏に延期されることが決まりました。
オリンピックムードが高まる中、先月NHK Eテレ、当時の東京オリンピック記録フイルム「1964 TOKYO 知られざるオリンピック」を観た。
内容は東京オリンピックの公式記録映画を撮るため市川崑氏が総監督を務め、その時のフイルム6時間分の未使用映像を基に語られた。
テレビの映像では55年前、1964年8月21日、聖火はオリンピック発祥の地ギリシャのオリンピアで採火され、22日にアテネを出発し、世界各国11の中継地を経て沖縄に到着し聖火リレーが始まった。
当時沖縄は終戦後、アメリカ統治下にあり、通貨は「円」でなく「ドル」、本土と沖縄に行き来するにはパスポートが必要だった。また、日の丸を掲げることも禁止されていた時代。聖火リレーのため、申請のうえ特別に「日の丸」の小旗をふる子供達の歓迎の映像が映し出された。1972年(昭和47年)5月15日に日本に復帰した。
さて、55年前、(昭和39年)1964年10月10日、第18回東京オリンピック開催されました。その時、所沢で射撃競技会場(クレー射撃)が行われたことご存知でしょうか?
所沢市南永井226-10の跡地には当時の東京オリンピックの「五輪之和」碑があります。
「五輪之和」碑
【 オリンピックを旗印に東京は大改造された! 】
1964年10年10日の開会式に向けて、東海道新幹線や東京モノレール、そして首都高速道路、地下鉄建設、上下水道整備と、近代的な東京へ生まれ変わった。一方では国鉄(JR)の蒸気機関車(SL)の保有台数は3,335両と、まだ蒸気機関車が全国を走っていた時代です。
また世界で初めて衛星テレビ中継が実現した。当時テレビは白黒時代で、カラーテレビは街頭などで見るしかなかった。ナショナル(現パナソニック)のカラーテレビの広告には16形の価格は230,000円。今や4K・8K時代である。ちなみに1964年大卒初任給が21200円。
(イメージ写真)
【 開会式 】
(昭和39年)1964年10月10日、前日の雨もやみ、東京の空はさわやかに晴れ渡った。史上最高の94カ国から5558人の選手が参加し、東京オリンピックの幕が開かれた。古関裕而氏作曲のオリンピックマーチとともに、各国の選手団が入場、最後に入場したのは開催国日本選手団437人であった。
文献「東京オリンピック1964」 石川氏の「開会式に思う」より、「この開会式を見て、私が涙を禁じ得なかったのは、400人、500人という大選手団を送った国々のあいだにいつつして、たった一人の選手が、その国の旗をかざして入場してくる姿だった。ボリビアの選手は旗手を兼ね、役員を兼ねていた。前にも後にも、だれもいない。彼はその孤独に耐えて、母国の栄誉を守ろうとしている。オリンピックの場においてのみ、彼は米国やソ連と対等であり得る。アルジェリア、ギアナ、モナコ、カメルーン、リビア、ニジェール、リベリア、みんな選手は一人きりだ。
そしてその大部分は新興独立国である。彼等は金メダルをねらっているのではない。彼等においてこそ本当に、「参加すること」に意義があったに違いない。私はこの孤独な選手たちに最大の拍手を送りたいと思った」と書かれている。
有名なクーベルタンの言葉で「オリンピックでもっとも重要なことは参加すること」と。
挿絵作“ぶん”
【ブルーインパルスチームの「五輪マーク」】
東京オリンピックの開会式、ブルーインパルスチームで青空に5色のスモークで「五輪マーク」を描くという計画があった。何度も訓練を行ったが一度も成功しなかった。開会式前日埼玉県の入間基地にブルーインパルスチームは移動し、その日は新橋の第一ホテルに打ち合わせを兼ねて投宿。都心には大粒の雨が降っていたので、お酒を飲んでしまったが、前日の大粒の雨はやみ、晴れ渡り、パイロット全員が昨日のお酒が残っていた。入間基地を離陸し、本番では青空に7キロにわたって「五輪マーク」が描かれ、見事に成功した。
挿絵作“ぶん”
【 所沢で開催されたクレー射撃 】
東京オリンピックに関して図書館から7冊借りてクレー射撃競技のことを調べたが、書かれてなかった。日本は銃刀法の関係でクレー射撃競技の影が薄いのでしょうか?「所沢市史」と「ところざわ歴史物語」同じ内容でクレー射撃場の選定につき書かれてあった。
東京オリンピック大会クレー射撃場の選定につき、東京都、神奈川、埼玉が候補地であった。
57年前の昭和37年(1962年)11月、所沢市柳瀬地区の南永井は、2年後に開催を控えたオリンピック東京大会のクレー射撃会場に選ばれた。この大会では四種目が埼玉県内で開かれることになるが、すでにライフル射撃場として決定していた朝霞自衛隊射撃の隣接地域として、当初から有力視されていた。会場となる南永井には、昭和39年9月に総工費約3億円、広さ約22万8600平方メートル、設備、規模とも東洋一といわれる射撃場が完成した。
クレー射撃場(所沢市生涯学習推進センター提供)
クレー射撃は、素焼きのお皿を飛ばし散弾銃で狙い撃ちする競技です。
競技風景(所沢市生涯学習推進センター提供)
【メダル獲得数は?】
アメリカ 金36 銀26 銅28 合計90
ソ連 金30 銀31 銅35 合計96
日本 金16 銀5 銅8 合計29
ドイツ 金10 銀22 銅18 合計50
イタリア 金10 銀10 銅7 合計27
【跡地の「五輪之和」碑】
所沢市南永井226-10の跡地には東京オリンピックの会場であったことを示す「五輪之和」碑、「天皇皇后行幸啓之地」碑があります。
「五輪之和」碑
昭和42年(1967年)10月には第22回国民体育大会秋季大会が埼玉県内でおこなわれ、所沢でクレー射撃競技が行われ、天皇皇后両陛下が来場された行幸記念碑もあります。
「天皇皇后行幸啓之地」碑
右側の石碑には「沿革1964年10月第18回オリンピック東京大会クレー射撃競技は参加28カ国の選手を迎え盛大に開催された…」。と刻まれてあります。
沿革の石碑
道路には「オリンピック道路」という名前がつけられています。 跡地は、今は県立所沢おおぞら特別支援学校や物流関係の民間企業などの敷地として使われています。
参考文献、引用 : 所沢市史 ・ ところざわ歴史物語 ・ 所沢市の昭和 ・ 東京オリンピック1964 ・ 地図と写真で見る東京オリンピック1964 ・ 64東京オリンピック ・ 新聞で調べよう現代日本の50年 ・ 東京オリンピック アサヒグラフ増刊