第二弾!西武池袋線のヒストリー!
「所沢なび」ボランティアライター“ぶん”です。
私たちが利用している武蔵野鉄道(現:西武池袋線)は当時蒸気機関車で運行されていたが、先駆けて電化を推進し、1922年(大正11)年11月1日に池袋~所沢間を電化した。
【武蔵野鉄道の設立】
武蔵野鉄道(現:西武池袋線)は1911年(明治44年)2月17日に武蔵野軽便鉄道免許の創立認可申請がなされた。発起人の中には飯能町出身の平沼専蔵(横浜在住貿易商)、所沢町織物買継商の向山小平次ら75名によって発足され、資本金は75万円。当初は、「武蔵野軽便鉄道」という名称で敷設免許の下付を受けたが、その後1922年(大正11年)5月の総会で「武蔵野鉄道」と社名を変更した。
初期の段階では東京府北豊島郡の国鉄山手線「巣鴨駅」を起点として、北豊島群長崎村、大泉村、久米川村、を経て、入間郡所沢町で川越鉄道(現:西武新宿線)を横断し、各町村を経て飯能町に至る約40.2キロメールの蒸気軌道が申請された。開業時の蒸気機関車はドイツ・ヘンシェル製Cタンク。
【路線変更と敷設工事の進行】
武蔵野鉄道は、1913年(大正2年)4月に池袋~飯能間の敷設工事が始まり、2年後の1915年(大正4年)4月15日に池袋~飯能間(44.2km)が開業した。
しかし、これまでいくつかの問題が起こり、計画も修正された面があった。長崎村(現:東京都豊島区)と巣鴨村の一部の用地買収未了は進んでいなかった。当時、巣鴨村は、中山道沿いに神社や寺院の門前町であり、問屋や小売りが並び、賑わいを見せていた。一方、池袋は、現在のような娯楽や商業中心ではなかった。この用地問題で、巣鴨村を起点とする理由がなく、結果的には現在の西武線の池袋が起点に変更された。
【西所沢駅は当初小手指駅と名称されていた!】
西武池袋線西所沢駅の改札口を出ると、左側に交番があり、その前方に2メールほどの石碑がある。以前から気がかりで、調べてみると、石碑には『小手指火車站創設之碑』と記されていた。1915年(大正4年)4月15日、武蔵野鉄道開業時『小手指駅』と呼ばれていた。その後、3年後大正7年に現在の『西所沢駅』に改称され、翌年大正8年に記念碑は建てられた。
小手指火車站創設之碑
【武蔵野鉄道(現:西武池袋線)と川越鉄道(現:西武新宿線)の争い】
文献により、駅の開設されたいきさつの諸説があった。
文献を読む中で昭和13年ごろ、武蔵野鉄道(現:西武池袋線)と川越鉄道(現:西武新宿線)の両社間で争いにより、武蔵野鉄道は所沢駅より500メールほど秋津駅寄りに「東所沢駅」を開設した」と記載があり、一方他の文献では所沢駅から秋津駅方面400メートルほどの場所に「松井村駅」が開設され(後所沢飛行場、東所沢駅)飛行場勤務者の便がはかられた。と記載されていた。
「東所沢駅」と「松井村駅」と諸説があることが分かった。他の文献を探し「松井村駅」は昭和13年2月19日開設されていることが明らかになった。しかし、確信がつかめず、吾妻分館(図書館)「Webレファレンス」サービスを受けた。図書館の方の協力で、所沢図書館本館で借りることができない「埼玉西部鉄道の歴史と駅名の変遷を探る」と「西武沿線の不思議と謎」駅名の移りかわりのコピーをいただいた。
※「Webレファレンス」サービスとは、知りたい情報や資料を専門家の司書がお手伝いするサービス。
書籍「埼玉西部鉄道の歴史と駅名の変遷を探る」によると、「所沢駅は川越鉄道と武蔵野鉄道の共同使用駅により、対立関係にあり、お互い乗客確保のため先ず、武蔵野鉄道は1938年(昭和13年)2月19日に、所沢駅からわずか500メートル池袋寄りに「松井村駅」を開設し、同年3月1日に「所沢飛行場駅」と改称したところ、旧西武鉄道(川越鉄道)は、やはり、同年6月21日に、武蔵野鉄道に対抗して所沢駅から800メートル寄りに、その名も紛らわしい「所沢飛行場前駅」を開設した。
武蔵野鉄道側の駅は、旧西武鉄道と合併直前まで「東所沢駅」として、旧西武鉄道側の駅は、1951(昭和26年)まで「御幸町駅」として営業していた。」と記載されていた。
また、書籍「西武沿線の不思議と謎」によると、「所沢は軍用の飛行場だったことから、軍部から駅の開設の働きかけがあったため、武蔵野鉄道側に「所沢飛行場」駅と川越鉄道側に「所沢飛行場前」駅と、駅名に「前」が付くか否かの違いしかなく、かなり紛らわしかった。」と、記載されている。
上記の「旧西武鉄道(川越鉄道)と武蔵野鉄道の共同使用駅により、対立関係」に関して、書籍「埼玉鉄道物語」
「堤健次郎」に詳しく書かれていた。
1895年(明治28年)3月、川越鉄道(現:西武新宿線)が国分寺~川越町の全線を開業した。ここに武蔵野鉄道(現:西武池袋線)は所沢駅に設け、川越鉄道と武蔵野鉄道の共同使用駅になった。
川越鉄道の駅員が武蔵野鉄道の業務も管理し、東京に行く乗客に対して高田馬場経由の切符を販売し、切符を買った乗客は、武蔵野鉄道の電車に乗る者が多かった。つまり、運賃は川越鉄道に入るが、運送するのは武蔵野鉄道であった。そのため競合関係にあることで摩擦は大きく、東京に向かう乗客の奪いあいによって、乗車券の売り上げの問題や駅員同士の乱闘騒ぎまで発生した。
※現在の西武鉄道は、1945年(昭和20年)年9月に武蔵野鉄道による旧西武鉄道との合併によって成立した。前進は、大正9年武蔵水電は川越鉄道を合弁した。その後大正11年武蔵水電は帝国電灯に合併され、この帝国電灯が鉄軌道業を本業の電力業から切り離して経営する方針をとり、大正11「西武鉄道」という新会社になった。その後、「西武鉄道」と「武蔵野鉄道」が合併したとき、以前の「西武鉄道」を「旧西武鉄道」と呼ぶ。
現在『所沢飛行場駅』『東所沢駅』跡は所沢駅より秋津駅方向400メートルほどの踏切の近くに案内があります。
【武蔵野鉄道】(現:西武池袋線)
・1938年(昭和13年)2月19日『松井村駅』として開業、10日後1938年3月1日所沢飛行場駅に改称
・1940年(昭和15年)11月1日『所沢飛行場駅』を『東所沢駅』に改称。
・1945年(昭和20年)2月3日『東所沢駅』廃止。
当時の東所沢駅
絵画は故 峯岸正雄さん著「むかしのところざわ百景」
【川越鉄道】(現:西武新宿線)
・1938(昭和13年)6月21日『所沢飛行場前駅』として開業。
・1941(昭和16年)4月1日『所沢飛行場前駅』を『御幸町駅』に改称。
・1951(昭和26年)6月10日『御幸町駅』廃止。
当時の御幸町駅
絵画は故 峯岸正雄さん著「むかしのところざわ百景」
当時の「御幸町駅」は、現在東川の鉄橋脇にあたります。
【当時の開業と時刻表】
1915年(大正4年)4月15日から営業を開始し、当時の池袋駅~飯能駅間(44.2キロ)では「東長崎」「練馬、石神井(現・石神井公園)」「保谷」「東久留米」「所沢」「初代小手指(現・西所沢)」「元狭山(現・狭山ヶ丘)」「豊岡(現・入間市)」「仏子」の10駅が設置された。
大正4年の改正時刻表では、所沢駅始発は5時54分、丁度1時間後の6時54分に池袋に到着。
当時1日8便、所沢駅の最終便は所沢駅発20:23→池袋駅着21:23。また、池袋発駅から飯能駅行きの最終便は池袋駅発20:54。ちなみに現在は池袋から飯能方面 最終便 準急0:08となっています。
【番外編 入間馬車鉄道】
武蔵野鉄道(現:西武池袋線)が開通する前、飯能地域の人は東京へはどのようなルートで行ってたのか?
入間川と飯能を結ぶ交通手段として、線路の上を走る車を馬が引っ張る鉄道が、1901年(明治34年)に開通した。当時飯能地方の人は、馬車鉄道に乗って、入間川駅(現:狭山市駅)に行き、そこから川越鉄道(現:西武新宿線)国分寺駅経由で甲武鉄道(現:JR中央線)のコースを通り東京へ足を運んでいた。武蔵野鉄道が池袋駅まで開通してから、乗客が少なくなり、1916年(大正5年)に廃止なる。
入間馬車鉄道の客車(狭山市立博物館に展示のレプリカ)写真許可済
【参考文献・引用】所沢市史(下)・ところざわ歴史物語・新編ところざわ歴史・西武鉄道・昭和の郊外(戦前編)・西武池袋線・埼玉鉄道物語・堤健次郎・西武鉄道まるごと探見・所沢史話・埼玉の鉄道 ・埼玉西部鉄道の歴史と駅名の変遷を探る・西武鉄道100年・地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み