その昔、所沢に酒造所があった!
「所沢なび」ボランティアライターの“ぶん”です。
その昔、所沢に酒造所があったことご存知ですか?
酒造の名は「若月酒造所」
所沢のお酒「ゆめところ」ではありません。しかしだ!
「ゆめところ」の裏側のラベルにこんなことが書かれてありました。
「その昔、所沢市久米の酒蔵に在った地酒を復活させたいという願いに、所沢の米で日本酒を造りたいというみんなの想いを織りなしてできた、夢の結晶です。」
約400年の歴史を持つ本家、平塚家の元気な88歳のおばあちゃんの話によると「若月酒造所」は所沢市久米の荒幡交差点に向かって吾妻まちづくりセンターへ曲がる200メートルほど手前の(株)トコスチの道を挟んだ正面にあったそうです。
おばあちゃんの話では、昔は裏山に欅(けやき)がたくさんあり、その欅の木々で一軒家が建ったそうだ。
江戸時代の久米村の名主を務めた人の中に平塚彦四郎氏がおり、幕末の頃、平塚家では自宅で酒を造っており、その際の杜氏(とうじ)として新潟県中頚城郡柿崎村(現上越市柿崎)に住む越後杜氏の若月清助氏を冬の醸造期間だけ雇用していた。
若月酒造所の杜氏チーム(蔵人)は一組7~8人の編成で、同村者が多く、11月~3月中句までの4ヶ月間余り、酒造所に泊まりながら働き、杜氏の下に頭(かしら)が、その下に麹屋、釜屋、精米屋が各1人、それらを手伝う、働き手2~3人という編成だったそうです。「久米の歴史」より
若月酒造の創業は今から139年前の明治11年、屋号は清久屋(せいきゅうや)と記録されている。
清酒の生産量は大正末期から昭和初期に全盛時代で530石(1升瓶で5万3千本)
銘柄は「東若菊」(あずまわかきく)
三代目清助の時代に太平洋戦争が起こり、原料米の不足から酒造が続けられなくなり、戦後もそのまま酒造は再興することなく、酒類を主とする販売店として営業にとどまったのでした。
参考資料:久米の歴史
このような歴史を辿り所沢市久米のお酒の復活を願って造られた「ゆめところ」です。
日野屋酒店のご主人に話しを聞いてみると、「ゆめところ」に使用しているお米は今年から『五百万石』にかわったそうだ。
酒造好適米の品種のひとつとのことだった。
代表的な酒米のひとつで粒が大きいと。
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