江戸後期から明治・大正・昭和前期にわたり織られた所沢絣!
「所沢なび」ボランティアライターのぶんです。
今回は所沢飛白(かすり)を取り上げてみました。
所沢市寿町に所在する数少ない歴史的建造物「秋田家」は屋号を「井筒屋」といい、綿糸商として所沢の織物産業の発展を支えた歴史があり、平成28年(2016年)2月25日「国登録有形文化財」として登録されました。
所沢を含む入間郡・多摩郡一帯は畑作中心の地域でしたが、農家の副業として、江戸後期から明治・大正・昭和前期にわたり織物が盛んに織られていた。幕末から明治にかけては輸入糸が入手できるようになったこともあり、絣(かすり)の生産が飛躍的に伸び、それはやがて所沢飛白(かすり)としブランド化し「所沢織物」の名で知られるようになる。
織物の集散地として、繁栄を誇る時代が続き、明治39年(1906年)の最盛期120万反の生産量を誇り、東北、北陸地方を中心に全国へ出荷された。明治40年ごろには、所沢は伊豫(いよ)(愛媛県)・久留米(福岡県)と並ぶ生産地として一躍繊維界に名声を博するまでに及んだ。
狭山ヶ丘で絣が織り始められたのは文化年間で発祥地は旧多摩郡の村山地方ではじまり、「村山絣」と呼ばれていた。「村山絣」も所沢市場で取引されることで、集散市場が所沢であったことから、「所沢絣」として広く世に知られるようになった。明治維新前には村山地方で織り始められた絣は所沢市域の山口村、吾妻村に伝えられ、絣制作にかかわる農家がしだいに増え、最初は農家の副業でしたが、明治になると機屋や紺屋を本業とする家が増えた。
所沢絣の特徴は「一本絣」にあります。一本絣というのは、筬(おさ)と呼ばれる機織りで使う用具の1目盛に通す経糸(たていと)が1本であることからきている。一本絣であるということは、経糸の本数が少ない分緯糸(よこいと)を太くして密度と厚さを補うことになる。そのため、織上りが堅くて丈夫にり、風合いも柔らかなものになった。
所沢絣の発祥から120年の歴史に幕を閉じることになった。理由として、洋装が普及すると需要が減速していき、農家の副業で小規模機屋が中心ゆえ、粗製濫造が原因となって下降線をたどりました。また昭和4年(1929年)山口貯水池(狭山湖)の建設にともない、山口村大字勝楽寺地区と大字上山口の一部の絣製造業者を含む居住者が移転を余儀なくされ、機屋(はたや)の廃業が相次いだ。
「幻となった絣」を所沢市山口民俗資料館で「所沢絣復元研究勉強会」の皆さんによる所沢絣の再現が毎月第一週(日曜日)に進められています。
4回ほど参加させていただきましたが、最終の織るまでの製作工程は、大きくわけて約20の行程があります。その一つ一つの行程には手間がかかり、細かい作業があります。その作業を行うには、50種類ほどのさまざまな道具が使われていきます。
工程のほとんどは手作業で、例えば「(よこ糸の糸返し)といって、つむでつむいだ糸を巻きとるH型やX型の道具の枠に巻かえる」作業。また「(よこ糸の絣しばり)とは印を付けたところを麻でしばる」作業。「(はたへ)とは、たて糸をヘダイにかけて、長さと本数を整える」などあります。このような作業を所沢絣復元研究勉強会の皆さんは行っています。ぜひ、一度お越しになって見学してください。
所沢市山口民俗資料館住所
〒359-1145
埼玉県所沢市山口1529番地の10
TEL:04-2922-2004
開館日
第3土曜日と第1日曜日と第2・第4木曜日
参考文献: 所沢市史 ・ 所沢市史(民族) ・ ところざわ歴史物語 ・ 所沢飛白 ・ 繭玉・織り出す絣 ・ 山口の暮らしと民具・