雛人形「立雛」と「座雛」の歴史
「所沢なび」ボランティアライターの“ぶん”です。
3月3日は女の子の健やかな成長を願う節句ですね。
3月5日まで野老澤町造商店で「野老澤雛物語」が開催されています。
今回も引き続き雛人形を取り上げました。
所沢雛人形作りの起源は、今から178年前の天保10年。この歴史が無くなりつつある!
所沢にはかって36人いた職人さんは、今では小寺様一人しかいません。
今は雛人形は流れ作業で作っているそうです。
その『初代埼玉県伝統工芸士 小寺様』を取材した様子は➡こちら
今回は「立雛」と「座雛」歴史を取り上げてみました。
「人形のおいたち」
形代(かたしろ) → 天児(あまがつ)・這子(ほうこ) → 立雛・紙雛 → ひひな → 現在と歴史は変わっていった。
天児(あまがつ)は、その形態からは明らかでないが、『源氏物語』、『御産之規式』にすでに見られ、平安時代より存在したと考えられます。
天児の目的は子供が誕生すると天児を作り、白絹の衣裳を着せ、お産部屋に飾り子供の身代わりとして、病気や災厄をはらい、無事な成長を祈るものでした。
資料:日本人形史より
「立雛(たちびな)」
人形の歴史は時代とともに、天児(あまがつ)、這子(ほうこ)より変化していき、より人形らしい形をとるようになる。
その中で「神雛」が登場し、紙を素材にしているので「紙雛」とも呼ばれていたそうです。
丸い頭に紙で衣を作り、立った形であることから「立雛」とも言われる。
初期の段階では、立姿とせず衣の紙が平らであり、寝かせて飾ったのではないだろうか?
後には、紙に代わり染や繊で模様を表した布製の衣を着せる立雛が現れる。このようにして天児(あまがつ)が変化して上流階級で鑑賞用人形の源流となった。
「座雛(すわりびな)」
江戸前期頃までは、元禄年間の資料によると、一般の家庭では「立雛」を飾り、武家や上流の家庭では「座雛」。
今でいう一対の内裏雛(だいりびな)が飾られて、それに、膳や調度品も置かれ、雛祭りの形ができている。
江戸中期頃になると、雛祭りも盛んにおこなわれたが、一般の庶民では、簡単な人形による雛祭りであったようで『寛保延亭江府風俗志』、「雑交苦口記(まぜこぜにがぐちき)」によると、着飾った雛でなく、簡単な人形を飾っており、一方では、本物のように作った雛道具の流行をなげいている。
「雛道具」については本物のように蒔絵を施したものが現れ、慶安(1648年~)以後たびたび御触書(おふれがき)出てくる。
あまり華美になるため、江戸幕府から出された「倹約令」の対象にもあげられ、寸法や衣装の規制がされたそうだ。
この椀は直径2㎝ほどの大きさで、本物のように作ってあります。
是非、3月5日まで野老澤町造商店で「野老澤雛物語」が開催されていますので、歴史を肌で感じに行ってみてください。
参考資料「日本人形のあゆみ」「日本人形史」