所沢で一番大きい川にまつわる民話📖
「所沢なび」ボランティアライターの“ぶん”です。
所沢で一番大きい川は「柳瀬川」です。
狭山湖を水源とし、久米、北秋津、上安松、本郷と流れています。
今回は久米の柳瀬川にまつわる「民話」の話です。
柳瀬川の一本橋のさくらです。
夏なると、このあたりに、悪い河童が潜んでいたんでしょうかね?
「河童の詫び証文」
むかし、柳瀬川に、1匹の河童が住んでいました。北秋津と久米の境の曼荼羅淵(まんだらぶち)というところをすみかしている恐ろしい河童でした。
夏になると川に遊びに来る人間を襲って、肝を抜き取ってしまうことでした。
曼荼羅(まんだら)の河童は、なぜ人間の肝をほしがるのか?それには訳がありました。
この河童には二匹の河童の親分がいました。
一匹は笹井の竹坊(狭山市水富)、もう一匹は伊草の袈裟坊(比企郡川島村)の河童です。
この親分たちに、人間の肝をお中元品として届けることになっていたのです。
ある日のことです。久米に住んで居る一人の馬方が、川岸の草むらに馬をつないでおき、
自分は家の中で仕事をしていました。すると突然、馬の悲鳴が聞こえてきました。
驚いた馬方が駆けつけてみると、これは大変だ!なんと馬の腹を食いついでいるのです。
きっと、人間の肝が手に入らず、困りはてた河童は、馬の肝でも、と、思っていたのでしょう。
馬方は勇気をふるって、河童と激しくい格闘のすえ、河童をねじ伏せました。
「ゆるしてください。もう絶対に悪いことはしません!」
河童は泣きながらたのみました。
その時でした。すぐそばにある持明院のお坊さんが、その騒ぎを聞きつけて走ってきました。
馬方は河童を押さえつけたまま、お坊さんに訳を話しました。
「そうか。だが、いくら悪い河童でも、殺してしまうのはかわいそうだ。よし、わしがよく言い聞かせてやろう。こんどだけは、わしに任せておくれ。」
「でも、お坊さん。こいつは。」
「分かっている。だが、こうして泣いて謝っているのだから、こんどだけは。」
「そうですかい。それほどまでに言うのなら、あとのことはお坊さんにお任せしましょう。」
「お坊さん。危ないところをおかげ様でありがとうございました。」
「いや、まだ終わってないぞ、さ、わしと一緒に来なさい!」
「え、どこへ行くのですか?」
お坊さんは、河童を持明院に連れて行きました。
「さ、そこに座りなさい!」
「はい。」
「おまえは今までに、いろいろな悪いことをやったな。だから殺されたってしかたがないことだぞ!」
「はい、分かっております。もう二度と悪いことはいいたしません。」
「ほんとうに、改心しているのだな?」
「はい、本当の気持ちです。」
「よし、それなら、今までのお詫びの証文を書きなさい。」
「でも、どんなことを書けばいいのでしょうか?」
「そうだな、では、わしの言うとおりに書きなさい。」
「はい。」
心からお詫びいたします。これからはもう絶対に悪いことは致しません。
ここに堅くお誓いいたします。
まんだらぶちの河童
村の皆さま
「書きました。お坊さん。」
「よし、これでいいだろう。いいか、この証文があるのだから、もし悪いことをすれば、その時はもう言い訳なんかできないのだぞ!」
「わかります。もう絶対に悪いことは致しません。ところでお坊さん。ひとつお願いがございます。」
「なんだな?」
「はい、私は、あの川にはもう帰りません。そこで、そのお願いと申しますのは。」
と、いうことで、河童はお坊さんに頼んで、人間の巡礼の姿に変えてもらうと、東海道をくだって行く長い旅に出ました。
が、さて、それから先は、どうなったことでしょう?誰も知りませんでした。
また、河童の書いた詫び証文は、そののち長く持明院に保存されていましたが、惜しいことに、明治19年の火災にあって焼けてしまったとのことです。
持明院
元慶2年(878)権大僧都(ごんのだいそうず)寂寛(じゃっかん)によって創建したといわれています。
所沢市大字北秋津85
西武線所沢駅下車、徒歩13分
参考文献:『ところざわふるさと散歩』 『所沢の民話』