所沢市の花の名前はご存知でしょうか?🍃
「所沢なび」ボランティアライターのぶんです。
さて、所沢市の花の名前はご存知でしょうか?
所沢市の花は茶の花です。
所沢市では昭和48年に、広く募集し、選ばれたものが「お茶の花」を市の花に決めたそうです。
4月、5月は新茶の季節で、お茶畑は緑の山が重なり合って綺麗です。(写真は北野南2丁目里山保全地域)
では、いつ頃、お茶の白い花を見ることが出来るんでしょうか?
11月の中旬ごろ、茶畑で2~3㎝ほどの白い花を見ることができます。花びらは5枚で優しい香りがします。
狭山茶の主産地である埼玉県西部では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか。
狭山茶の起源は鎌倉時代(約800年前)までさかのぼる。
これについては中世の文献に「河越茶」と「慈光茶」が登場します。これらの茶が現在の狭山茶の起源になる。
では「河越茶」とは
南北朝時代の書物『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、「武蔵の河越茶,皆な是れ天下に指して言う所」の茶産地の一つとして登場します。
江戸時代には、狭山丘陵一帯の村々が*川越藩領であったことから、「河越茶」と呼ばれていた。
赤い線=「武蔵河越茶」
*川越藩(かわごえはん)・・・武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。
明治8年、入間市近在の製茶業者30名が集い、「狭山製茶会社」が設立され、アメリカへの茶の直輸出業務や、製茶農業の育成を行った。
狭山会社の茶袋ラベル
狭山会社がアメリカで販売した茶のラベル。
入間市博物館蔵
「茶」が我が国に初めてもたらせたのは、平安時代の初期であるといわれる。そののち、日本の茶祖ともあおがれる鎌倉時代(約800年前)に臨斉宗の栄西禅師が南宋(現在の中国)から種子を持ち帰り、栽培が始まる。
栄西禅師は中国から茶を伝えた「日本の茶祖」とも呼ばれています。
狭山地方では、京都の高僧・明恵上人が「武蔵河越」の地に栽植したのが始まりとされています。
紀元前2700年頃、神農(しんのう)が薬としてお茶を発見したのが始まりと言われています。
中国の神農(しんのう)という人が、人々に医療と農耕の術を教えたという。また、神話に中に神農が昼寝から目覚めると、お湯に中に木の葉が落ちていた。
見るとお湯の色は黄緑色で、飲んだところ気分が爽快になり、そこで、これを「茶」と名づけたと言われているそうです。「茶」の部首は「艹・くさかんむり」です。
緊張をのばす飲み物という解釈もあります。
参考資料:神農図(三光丸クスリ資料館所蔵)
中国の歴史の中で、お茶が登場するのは中国最古の薬物書である『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』となっています。
参考資料:くすりの博物館 収蔵品デジタルアーカイブ『神農本草経』より
本記事の参考資料「狭山茶の歴史と現在」「本場に学ぶ中国茶」「心と体に効くお茶の科学」