歴史から紐解く、所沢の名物とは?
ボランティアライターの“ぶん”です。
所沢といえば「航空公園」、そんな航空公園と同様、地元にしっかり根づき、しっかり愛される自慢は「焼き団子」。
なぜ、所沢は昔から「焼き団子屋」が多かったのでしょうかね?
いろいろ考えられることがいくつかありそうです。
【一つ目】
所沢は比較的海抜が高く、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われて、水はけが悪いく水田を使わずできる稲陸(おかぼ)栽培がされてきました。
稲陸米(おかぼまい)は炊いて食べるにはぽそぽそして美味しくないため、石臼で挽いて米粉にして団子にして食べていた。
所沢の伝説に「所沢には嫁に出すな!」「火事は土で消す」いうのがあり、所沢は地形的に台地で、水に恵まれない土地でした。
所沢民話の「三つ井戸」でも水が不便なところが語られています。
所沢民話「三つ井戸」のお話は→こちら
「真夏のある日、お坊さん百姓家を訪ね、「水一杯下さい」と言い、その家の娘は水を汲みに行ったがなかなか戻らず、訳をたずねたところ、「水が不便なところで、井戸まで遠くて苦労します」と。それを聞いたお坊さんは、帰る前に娘に三つの場所を指先、そこに井戸を掘るように言い残しました。村人たちがその場を掘ると、清らかな水がこんこんと湧き出たのです」という民話です。
武蔵屋の焼きだんごの女将さんが言っていましたが「私が小さいころ、水道の蛇口は台所に一つしかなかったと。
あとは近くに共同の水道蛇口が一箇所あった」。とのこと!
【二つ目】
由来は定かではないが。
一説によると、室町時代康正元年(1455年)太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を構築中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩に出かけた。その帰り道、所沢付近に立ち寄った際に、地元の人がだんごを焼き、自家製の醤油をつけて出したのが始まりと言われている。
絵画は故 峯岸正雄さん著 (むかしのところざわ百景)
【三つ目】
これは新しい仮説かも?
最近テレビ番組で知ったことですが、徳川家康は鷹狩が好きだったと!
「ところざわ歴史物語」にも徳川家の鷹狩のことが書かれてあります。
「尾張藩主徳川義直は寛永10年(1633)に将軍から鷹場を拝領して以来たびたび鷹狩を挙行している。
寛永21年、徳川義直は多摩郡前沢村(東京都東久留米市)に鷹狩を催したが、このとき市域の村々では、所沢村の60人をはじめ,計506人の人足を負担しています。市内の薬王寺が尾張徳川家の鷹狩の際の藩主の休泊所にもなりました。」
場合によっては、太田道灌同様、徳川義直も薬王寺あたりで、おやつとして団子を食べたかもしれませんね。
これこそ新たな仮説になりそう?
鷹場の境界を示す境抗の打たれた跡が今も残っています。
尾張藩鷹場抗(東狭山ヶ丘)
「これより東 西 北、尾 張 殿 鷹場」とある。
【四つ目】
『焼き団子には決まりごとがあった!』
1894年(明治27年)所沢の「焼きだんご組合」は申し合わせ事項を定めている。
① 竹串は青竹を使用し、5寸5分、下から1寸のところに節があり、青竹のついた1分角であること。
② 一串4個のだんごは、両端の上と下のだんごは大きく、中2個は小さくし、重ねたときにくっつきにくくするため。
③ 醤油は所沢産のヤマホに限る。 「ヤマホ」は1856年(安政3年)創業、深井醤油㈱の屋号。
④ 隠し味として一割の酒を混入すること。
⑤ 2本で一皿、3銭。
⑥ 包装は必ず経木で包み、冷やしてから新聞紙にくるむ。
⑦ だんご焼きの炭は「消し炭」に限る。火は弱いがだんごの芯から熱くなる。
⑧ 毎月5日は久米の水天祭り。お産の神様で嫁さんお姑さんの参拝が多いので、参拝帰りには子持ちだんごの大サービス。
所沢だんごには決まりがあった!の記事は→こちら
炭火で焼いたお団子は格別ですね。
武蔵屋 焼き団子
埼玉県所沢市宮本町1−8−14
参考文献
ところざわ歴史物語 むかしのところざわ百景