零戦を造った堀越二郎氏は戦後初の国産旅客機YS-11を設計した人!
ボランティアライターの“ぶん”です。
今回は西武新宿線「航空公園駅」駅前に展示されている国産旅客機YS-11機の話です。
私事ですが、昨年10月から今年2月まで、生涯学習推進センター「ところ学」で所沢の歴史を学び、最後の講座では「所沢航空記念公園内の航空に関する」ことを学びました。その中で「YS-11」についても講義を受け、改めて文献を読んでみることにした。
【YS-11の由来】
昭和33年4月、中型輸送機を「YS-11」と名づけた。
「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送(YUSOUKI)」と「設計(SEKKEI)」の頭文字の「Y」と「S」をとり「YS」とした。「11」の最初の「1」は搭載を予定した各種候補エンジンごとにとった資料ナンバーであって、「ダート10」の番号の「1」であった。後ろの「1」は検討された機体案の番号を表し、主に主翼の面積や位置によって第0案、第1案となって、第1案となって「1」とし「YS-11」と命名された。
【飛行機は美しい夢】
YS-11の基礎研究設計者には宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」の主人公、堀越二郎氏も手がけた一人であった。
【戦後の国内航空機は?】
昭和20年(1945年)8月15日の敗戦によって日本は無条件降伏し、11月18日、GHQ(連合国占領軍総司令部)により、民間機の航空活動も含め、航空機の生産、研究、実験を初めとして一切禁止された。運輸省航空局も廃止され、大學の航空学科および航空研究所などもすべて廃止され、日本の空には模型飛行機すら舞うことがなくなった。
【国産旅客機の開発構想】
昭和31年3月から通産省の赤沢璋一氏は外界に向かって国産民間機計画が打ち出された。まず、東京会館で機体メーカーの各首脳と個別に会談をもって、中型輸送機の国産化計画について意向を打診し、その反応を探った。昭和32年に「日本の空は日本の翼で」をスローガンに予算化し、『財団法人輸送機設計研究協会(輪研)』が成立した。
【YS-11の基礎設計者】
YS-11の基礎設計には、総合主任と各分野の主任が置かれますが、この総合主任に、「航研機」で名を馳せた木村秀政氏。
・三菱重工業の堀越二郎氏「零戦(ぜろせん)」、「烈風」の設計者。
・川西航空機の菊原静男氏「紫電(しでん)」設計者。
・中島飛行場(現富士重工業)の太田稔氏、「隼(はやぶさ)」
・川崎重工の土井武夫氏「飛燕(ひえん)」設計者設計者。
5人は、いずれも戦前の日本を代表する「五人のサムライ」と呼ばれた。
【モックアップの製作】
国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、1958年(昭和33年)には実物大模型(モックアップ)が製作された。当時の費用としは5,500万円で、客室の艤装(ぎそう)に力を入れ、一脚50万円もする表皮を西陣織とした座席が設置された。
【日航製の発足】
その後財団法人輸送機設計研究協会(輪研)は解散された。1959年6月1日、特殊法人日本航空機製造株式会社が設立され、初代社長に荘田泰蔵氏が就任、新三菱重工業の東条輝雄氏を技術部長が就任した。初年度予算は3億円、補助金6000万円。1961年試作機一号機の部品製作が開始された。
主翼を川崎重工業、尾翼を富士重工業、補助翼及びフラップを日本飛行機、胴体を新三菱重工業と新明和工業、降着装置を住友精密が担当することになった。
【YS-11初飛行へ旅立つ】
初飛行は1962年8月30日の名古屋飛行場で早朝に行われた。初飛行では失速特性、3つの舵(かじ)の効き具合、飛行安定性の確認が行われた。飛行試験を重ねるうちに深刻な問題があることが判明した。最大の問題は主翼、水平尾翼、垂直尾翼のそれぞれの舵、つまり3舵の効きが悪いという問題であった。問題については順次解決されたが、その解決には8ヶ月の時間を要した。それによって量産機が正式に発注されたのは1963年1月30日のことであった。
【YS-11の生産終了となった日】
量産に着手して10年、その当時、YS−11は半官半民の特殊法人で開発されたため、多額の赤字問題がクローズアップされていた。抜本的な収入が改善する見通しもないまま、通産省は生産を止めてしまった。生産を中止する1972年までに生産機数は合計182機にものぼり、国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など、幅広く活躍することになる。
【東京オリンピック聖火輸送】
1964年(昭和39年)アテネから沖縄まで日本航空のDC-6Bで輸送されてきた聖火は9月9日沖縄から鹿児島、宮崎経由で北海道の千歳の3空港へ2日間限りのチャーターフライとしてYS-11は「五輪の火」を輸送の大任が果たされた。
【航空公園駅前に展示されているYS-11A-500R】
昭和44年(1969)に製造された第101号機で、平成9年4月13日の「エアーニッポン846便」として大島発-東京便を最後に、28年に渡り、総飛行時間52,991時間、総飛行回数58,253回で現役を引退しました。全日本空輸(株)(ANA)及びエアーニッポン(株)のご好意により埼玉県に寄贈を受けたものです。
参考文献:「YS-11国産旅客機を創った男たち」 「YS-11物語」 「翔べ!YS-11」