所沢飛行場とアンリ・ファルマン機!パート2!


所沢なび ボランティアライターの“ぶん”です。
前回に引き続き「所沢飛行場とアンリ・ファルマン機 パート2!」のお話です。

※所沢飛行場とアンリ・ファルマン機 パート1はこちら

前回の記事で諸説があることを書きつづりました。種々調べたが解きあかすことができず、吾妻分館「Webレファレンスサービス」を受け、当時の新聞「明治44年4月6日 東京朝日新聞」と「明治44年4月7日 読売新聞」のコピーをいただきました。

(提供:所沢航空発祥記念館)

 

【所沢飛行場での初飛行!】

前回の諸説のおさらいから・・・

書籍「所沢市史」には「4月5日の初飛行は午前4時に開始され、まず徳川大尉の乗るファルマン機が5時10分に飛行したが約15メートルまで上昇したところでシャフトの具合が悪化して約1分で降下した。シャフトに砂塵(さじん)が溜まってしまったためという。」と掲載されていた。

また、書籍「初飛行(東京朝日新聞)」には「所沢飛行場で5時10分、(中略)ところが、10メートルほど浮上したとき、急に爆音が消え機は勢いを失い、あわてて自動車が飛び出した。幸い事故ではなかったが、この故障は好敏には衝撃であった」と「所沢市史」と同じような内容の掲載であった。

一方他の書籍「所沢陸軍飛行場史」・「日本航空発祥地100周年所沢」・「所沢飛行機の経歴(飛翔)」その他には、「4月5日の初飛行は徳川大尉の乗るアンリ・ファルマン機が午前5時37分に飛場し、高度約10メートル、距離800メートル、1分20秒の飛行時間を記録した。」又は「成功しました。」と掲載されていた。

さらに文献を調べていくなか、興味ある書籍に出会った。村岡正明氏「初飛行」の一部を抜粋すると「この時期の日本国内で、飛行機が飛ぶ様子を実際に見たことがあった者は、田中館・日野熊蔵 ・ 徳川好敏、滞仏中にライト機の飛行を見学した東大の広井勇教授と森田新三だけであった。(中略)飛行機の車輪が少しでも地面を離れたと見ると、「飛んだ、飛んだ」と声を上げたのは、代々木ではごく普通の光景だった。それを考えると、飛行機の飛行とはどのようなものであるかをまったく知らなかった。」と。

上記のように二つの諸説があり、当時の新聞「明治44年4月6日 東京朝日新聞」と「明治44年4月7日 読売新聞」を紹介します。

【明治44年4月6日 東京朝日新聞-鈴木記者の記事】

徳川大尉の飛行

「もう夜は明けたが空は曇っているので、どことなく薄暗い飛行機の中に立っている将校や委員の方もどんよりしてよく見えぬ、しかし風がまったく死んでそよともせぬ五時過ぐる十分、徳川大尉は極めて落着いた態度でファルマン式に塔乗し、推進機の勇ましき音と共に出発し、いよいよ五、六十メートルも滑走したかと思うと、地上を離れ十メートルないし、二十メートルの高さで東方に向かって飛行した。次第に場内のコースにそって飛行したが、何ゆえか推進機の音がだんだん弱くなり、半円を描いたはかりで、場の北方に下降してしまった。この飛行距離およそ千二百メートル、たちまち自動車が行く、田中館博士は自転車で駆け付ける。やがて四、五分すると飛行機は再び推進機の音を響かせて北東から南の方に向かって滑走したが、ついに飛行せずに終わった。すなわちファルマン式は昨日の烈風のために発動機へ砂が入って十分力を出す事が出来なかったのである。」と当時東京朝日新聞は伝えていた。

アンリ・ファルマン式複葉機(所沢航空発祥記念館内)

 

【明治44年4月7日 読売新聞記事】

【所澤における大飛行】

「徳川大尉まづ飛ぶ、五日の拂曉(ふつげう)は天地全く静寂にして無風なりしが徳川、日野の両大尉は直ちに結束して出場し、徳永気球隊長、田中館、中村の両博士、その他陸海軍将校等、いずれも参集し、まづ徳川大尉はファルマン式飛行機を曳き出し、発動機の響きの黎明(れいめい)の空気に鳴り渡るや、大尉は悠然坐乗(ゆうぜんさじょう)し、東方に向かって走行すること約三十メートルにして飛揚し、約十五メートルの高さを保ちつつ、飛程千二百メートルに及びしか、大尉は一層高く飛行せんと前方の密林方面に向かって進まんとしたる時、二、三日前の烈風の際、機闘内部に吹き込まれし砂塵(さじん)の為、発動機に故障を生じたるより、是非なく前進中止して降下したり、時に午前五時三十分、飛行時間一分二十秒。」と当時の読売新聞は伝えていた。

アンリ・ファルマン式複葉機(所沢航空発祥記念館内)

 

飛行機の名付け親は、誰でしょう?】

「飛行機」の名づけ親は日本の明治・大正期の小説家「森鷗外」です。

明治34年、九州小倉に左遷されていた森鴎外が、羽ばたき翼機の研究家、矢頭良一の「翺翔原理(こうしょうげんり)」と題する原稿に一驚して彼を自宅に招き、「矢頭(やず)再び至る、すなわち為に飛行機の沿革を説く」と「小倉日記」に記し、みずから東大物理学研究室に出向いて田中館門下の二人の助教授に矢頭を託したのが、この新造語が用いられるようになったのが始まりであった。

『小倉日記』は1901年の作品ですから、ライト兄弟による有人飛行よりも2年早いことになります。

【アンリ・ファルマンとは】

フランスで生まれたイギリス人で、1908年5月29日、自ら設計した航空機にヨーロッパで初めて乗客を乗せた。弟モーリスと航空機製造企業ファルマン航空機製造を設立、飛行機学校を作った。

下写真は徳永好敏がフランスから購入したアンリ・ファルマン機、三井物産の手によって船便で横浜に到着し、中野の気球隊の施設で組み立てられ、その後、陸軍代々木練兵(現在:代々木公園)で走行試験が行われたアンリ・ファルマン機。

陸軍代々木練兵とアンリ・ファルマン機の模型(所沢航空発祥記念館内)

 

所沢市御幸町にファルマン通りがあります。また航空公園駅構内にアンリー・ファルマンベーカリーというお店があります。

この度は吾妻分館の皆さまご協力ありがとうございました。

参考文献:引用 東京朝日新聞(明治44年4月6日・7日)・読売新聞(明治44年4月6日)・

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ぶん Bun

2016年10月“所沢なび”ボランティアライターとして生まれたボクの名前は「ぶん」! 仕事は、所沢を中心に身近にある自然やおいしいもの、楽しいものを見つけみんなに知ってもらうこと。 魅力いっぱいの「所沢なび」これからもよろしくね。

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