101年前フランス航空教育団の来日!


「所沢なび」ボランティアライター“ぶん”です。

日夜新型コロナウイルスに関する報道がなされ、医療従事者のためにも一日も早く休息に向かって欲しいです。100年前も最悪の感染症「スペイン風邪」が世界的大流行しました。大正7年(1918年)~大正8年(1919年)。死者は、全世界2000万人~4000万人、日本国内でも約45万人前後の方が死亡したそうです。

「スペイン風邪」が流行っているさなか、101年前、第一次世界大戦が終結した大正8年(1919年)1月15日フランス陸軍フォール大佐率いるフランス航空教官団が航空技術を日本に伝えるため来日しました。

フォール大佐胸像は所沢航空記念公園内、茶室「彩翔亭」近くにあります。


【日本初の所沢飛行場】
海外において航空技術が発達し、日本においても航空機の研究と製作を早急に行うべきと、海軍、陸軍から意見書や報告書が提出された。111年前、明治42年(1909)7月30日「臨時軍用気球研究会」は勅令によって発足された。研究会の目的を遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究と定められた。

明治43年(1910)4月11日、徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉は、「飛行機操縦法の修得」と「飛行機購入」のため、シベリア鉄道を経由してヨーロッパに向けて旅立った。
徳川大尉はフランスへ、日野大尉はドイツへ。徳川大尉は古い町エタンプでアンリ・ファルマン学校へ入学。そして、フランス第289号の飛行機操作免状を取得し、飛行機の操縦法を学んだ。徳川大尉はアンリ・ファルマン機のほかに、プレリオ機を購入し日本に持ち帰った。


アンリ・ファルマン式複葉機(所沢航空発祥記念館)


アンリ・ファルマン式複葉機(所沢航空発祥記念館)

所沢飛行場の整備は、明治43年10月に着工、翌44年4月に、長さ400m、幅50mの滑走路と格納庫・気象測定所・軽油庫などの主要施設が建設された。

明治44年(1911)4月5日の初飛行は午前4時に開始され、まず徳川大尉の乗るファルマン機が5時10分に飛行したが約15メートルまで上昇したところでシャフトの具合が悪化して約1分で降下した。昭和20年の終戦まで、日本の航空技術の発展に大きく貢献した所沢飛行場、それゆえ所沢は「日本の航空発祥の地」といわれている。


写真:所沢航空発祥記念館

【フランス航空教官団の展開】
第一次世界大戦当時の日本の航空技術は遅れていた。所沢飛行場初飛行後、国内では各地に飛行場が開設され試験飛行が行われたが、航空技術やそれを伝える教育体制は立ち遅れていた。

その状況に日本政府は航空戦力の重要性を感じ、大正7年(1918年)陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は航空先進国であるフランス政府に対し、航空機機材の購入と航空技術の指導を要請した。

フランス政府の好意により、フランス政府の費用で日本に派遣された。
101年前、第一次世界大戦が終結した大正8年(1919年)1月12日フランス航空教官団が航空技術を日本に伝えるため長崎に到着し、神戸経由で東京駅に15日に着いた。そして1月20日、国分寺駅経由で所沢駅に到着し、埼玉県知事を始め、所沢駅から飛行場に向かう飛行機新道には所沢小学校の生徒がフランス国家を歌って出迎えたそうです。

操作シミュレータによる操作訓練、左側がフランス人教官。

写真:Christian POLAK Collection

所沢で製作中のニューホール24C1(甲式三型戦闘機)

写真:(株)第一印刷

フォール大佐を長とするフランス航空団は当初半年の予定であったが、大佐の働きかけによって延長され、1年9ヶ月の長きにわたって62名が2団に分かれ、我が国の航空教育に当たりました。また、航空技術団の影響は所沢町にも反映し、飲食店などが次々に開業し、また日本人との文化交流に接し、町の発展に大いにつながった。


写真:Christian POLAK Collection

【フランス航空教育団の活動地】
フォール大佐を長とするフランス航空団は、所沢を拠点に各地で航空に関するさまざまな指導教育にあたった。
教育団の教育科目は8項目。①飛行機操縦及び空中戦闘法 ②偵察写真・無線通信術 ③空中射撃術 ④爆撃術 ➄機関工術 ⑥気球に関する教育 ⑦機体製作術 ⑧発動機製作術

フランス航空教育団の訓練地
・埼玉県所沢(気球に関する教育・機体製作術)
・千葉県下志津(偵察写真・無線通信術)
・静岡県浜松市(空中射撃術・爆撃術)
・東京都文京区(機関工術)
・愛知県名古屋市(発動機製作術)
・岐阜県各務ヶ原(飛行機操作・空中戦闘法)

各務原でのエンジン製作、ル・ローン空冷式回転星型9気筒でエンジン本体が回転する。

写真:Christian POLAK Collection

【フォール大佐胸像部分とプレート】
フォール大佐胸像部分とプレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982年)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏の製作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。胸像部分とプレートは、フランス航空教育団来日100周年となった平成31年(2019年)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙興業会(GIFAS)から寄贈されたものです。

フォール大佐胸像は所沢航空記念公園内、茶室「彩翔亭」近くにあります。

所沢航空記念公園内

像下のプレートは、フランス航空教育団来日100周年となった平成31年(2019年)に、オリジナルの姿に復元したもの。

所沢航空記念公園内

【フォール大佐もこよなく愛したフォールカツレツ】
100年前から愛されている“フォールカツレツセット”フランス飛行団のフォール大佐が足繁く通い、こよなく愛した美好(当時の「美好軒」)のフランス料理。

明治15年、初代、河田大三郎は明治時代の幕開けとともに、洋食文化が求められると着眼し所沢で美好軒を始めました。明治44年 アンリ・ファルマン機で初飛行に西欧した徳川好敏大尉をはじめ、所沢飛行場の開設に関わった、著名人や飛行機関連の将校、報道記者が美好軒の洋食を食べに来店されました。

現在、料亭美好で「フォールカツレツ」として味わうことができます。



今回の取材は昨年12月末ごろから始め「フランス航空教育団来日100周年記念事業」パネル展が所沢市役所で開催されました。また、アンリ・ファルマン機の写真は今年1月に航空発祥記念館。フォール大佐胸像は3月末、文献は図書館が全館休館する前に借り、5月7日まで借りることができましたが、まさか、記事の冒頭で書いたよう「スペイン風邪」と「フランス航空教育団の来日」が重なるとは思ってもいませんでした。

【参考文献、引用】ところざわ歴史物語・日本の空のパイオニアたち・雄飛・日仏航空関係史・陸軍飛行史・所沢航空記念公園・フランス航空教育団


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