🍡所沢の団子には決まりごとがあった!
みなさんこんにちは「所沢なび」ボランティアライターのぶんです。
今日の題目は!
『所沢の団子には決まりごとがあった!そして諸説もある?』
みなさんこの事は知っていましたか?私はテレビで知りました📺
竹串は青竹を使用し、5寸5分、(約16㎝)
一串4個、両端は大きく(1寸=約3㎝)中2個(8分=約2.4㎝)小さく作り、
積み上げたとき、だんごがくっつきにくくするため。ですって!
絵の中の漢字を間違えました(W)正解は「直径8分」です。
所沢のだんごの決まりごとって!?
その1、一串4個、両端は大きく、中2個は小さく作り、積み上げたとき、だんごがくっつきにくくするため。
その2、竹串は青竹を使用し、5寸5分(約16cm)。
その3、醤油は所沢産のヤマホに限る(創業寺坂深井醤油)
その4、包むときは必ず経木で包む。
その5、だんご焼きの炭は「消し炭」を使う。
その6、隠し味として一割の酒を混入すること。
その7、2本で一皿、3銭。
その8、毎月5日は久米の水天祭り。参拝帰りには子持ちだんごの大サービス。
※1894年(明治27年)所沢の「焼きだんご組合」は申し合わせ事項を定めているそうです。
焼きだんご 1本120円
お団子屋のおばちゃんが話してくれた。
「所沢は水田がないので畑で稲を育て、陸稲米栽培だから、美味しくないので団子にして焼いて食べれば美味しくなる。そんなわけで所沢は団子が名物です」と。
団子屋のおばちゃんに、壁に掲げてある「だんごの由来」の写真を撮っていいか聞いてみると、「所沢焼だんごの由来」↓のコピーをくれました。
「所沢焼だんごの由来」
康正元年(1455年)太田道灌(おおたどうかん)は江戸城を構築中、武蔵野の館より武蔵野に鷹狩を催し、その帰り途所沢付近で藩暮となり、折しも皎々たる仲秋の名月は冲天にかかり、皓い月影は芒の穂波に揺れて秋虫のすだく幽寂の風情は道灌の詩情を誘い、家臣とともに野希に歌宴をはったとき、土着の名族某、手搗団子を焼き、これに自製の醤油をつけて献じたるところ道灌は名月に配する団子の風稚を賞讃して、以来折りにふれてこれを所望したのであるが、文明十八年道灌は歿した。
名族某は、道灌の死を悼み所沢の地に道灌に献じた団子の製法を家伝として鎌倉街道、甲州街道の地点に茶店を開きこの団子を商しためるに、行き交う人々に親しまれ大繁生したが、時の流れと共に商賞も一時衰えたが、これに屈する事なく経覚、名族の後裔よく先祖の意を継ぎ、これが再興に努力したため、再び人々に親しまれる至りたるが道灌団子の名は永き歳月の間忘れられ、世の変遷と共に、その形、味付け等に幾分変わりたるあり。現在の如く竹串に刺して焼く方法は天保年間からといわれ、其の頃より誰云うとなく、所沢名物焼きだんご称せられるるに至り、当武蔵屋は、太田道灌団子の伝続方法技術を継ぐ。
と書かれてありました。
※太田道灌(おおたどうかん)・・・江戸城築城、いわば江戸の礎をつくった人物です。江戸時代、太田道灌は江戸庶民から「道灌さん」と呼ばれ、大変愛された人です。
・・・気になりますよね。のれん。(笑)
この日は強風で、何度直してもめくれ上がってしまうのでした…(._.)💦
お土産に包んでもらった団子、今どき珍しい経木で包んでくれました。
決まり事をちゃんと守っているんですね!
経木(きょうぎ)は、スギ・ヒノキなどの板を、紙のように薄く削ったもので、昔は肉など包んでくれていました。
ショップ情報
店名 武蔵屋焼き団子
住所 埼玉県所沢市宮本町1-8-14