所沢の国登録有形文化財「秋田家」をご存知ですか?
ボランティアライターの“ぶん”です。
平成28年2月25日に「国登録有形文化財」として登録された「秋田家」を紹介します。
所沢は、幕末から明治・大正・昭和にわたり飛白(かすり)を主体とした「所沢織物」の名で知られ、織物の集散地として、繁栄を誇る時代が続きました。
明治39年(1906年)の生産高は最盛期120万9000反を迎えました。しかし、所沢絣(かすり)の発祥から120年の歴史に幕を閉じることになり、当時の名残をとどめる歴史的景観に寄与する建築として「国登録有形文化財」に登録され、11月12日特別公開になりました。
※一反は「幅約37センチ、長さ約12メートル50センチくらいが標準である。」と説明されている。
【秋田家の歴史】
秋田家は屋号を「井筒屋」といい、綿糸商として所沢の織物産業の発展を支えた歴史があります。
秋田家では、商売に留まらず、銀行の設立発起人に名を連ねるなど町の発展にも力を尽くされ、さらに大正2年(1913)には雛沢座を買い取り「歌舞伎座」として再建しました。
「店舗兼主屋」は、1階前半部のミセの開口を広めて格子戸をたてています。
【秋田家の土蔵】
「土蔵」は明治15年に建てられ、店舗兼主屋の北西側に一体化して建てられて、黒漆喰塗の重厚な扉です。
「絵入砂摺ガラス」
2階は数寄屋風の明るい座敷で、「絵入砂摺ガラス」を用いるなど、すっきりした造りとなっています。
窓ガラスには六角形と桜の花びらをモチーフとした「絵入砂摺ガラス」が、明治に長崎県のガラス商、川添其三郎氏が考案されたとのことです。
調べてみたところ、現在も事業を営んでいることが解り、「文久元年4月1日(1861年)川添家9代川添甚兵衛によって創業され、その後、11代目甚三郎氏は、明治30年代初めより、摺加工(すりかこう)による模様表現を模索し、和服の伊勢型紙を用いて、(米粉6:黒砂糖4)の糊で密着する技法を明治39年、板硝子摺加工機として完成した」とのことです。
お米を粉にしたものは、昔から、せんべい、だんご、和菓子などいろんな食品に使われてきました。それに黒砂糖を混ぜて糊を作る。明治時代らしい技法を考案されましたね。
【秋田家住宅離れ】
北側の8畳間は床の間、書院、棚飾を備えたお座敷で、縁側は、ガラス戸をたて、組子のガラス欄間を飾るなど、気品のある造作になっている。
【門及び塀】
門は一間腕木門(ひとまうでぎもん)、屋根は切妻造桟瓦葺。
この塀は斜めに下がり、軒が波打って見えるが、昔は東川に向かって土地が下がっており、これに沿って造られているためである。
【店の出桁造り(だしげたづくり)】
部材を軒先まで銅板を張り、防火を講じる、特徴的な外観をもっています。
【入間市小谷田産の瓦】
屋根が切妻造桟瓦葺(きりづまづくりさんかわらぶき)、影盛鬼瓦(かげもりおにがわら)。
先端の軒巴瓦には秋田家の商標である「井桁の中にイ」が刻まれています。
建物で使われた瓦は入間市小谷田産の瓦ですって!
調べていくと、埼玉県入間郡東金子村小谷田(現入間市東金子)平安時代からの瓦生産地。
現在は東金子窯跡群として残っています。
【当時の写真】
当日は、秋田家に関する古写真や道具、所沢の建物でも使われた電線用碍子など、歴史的建造物をより深く知るための展示がされてありました。
写真は「新年最初の商品の出荷を「初荷」といい。筵(むしろ)で梱包された荷が店の前に積まれ、その上にはっぴを着た若い衆が腰かけています。
のぼりやちょうちんには「秋田」の文字が見えます。
この近くをお通りの際は、外観だけでも当時の歴史的景観を名残とどめることができますので、是非、見てください。
【住所】
所沢市寿町29番7号
参考資料:所沢たてもの帖、文化財保護、所沢織物の軌跡、所沢市HP