103年前、所沢のスペイン風邪は?
「所沢なび」ボランティアライター“ぶん”です。
103年前(大正7年(1918年)~大正9年(1920年))最悪の感染症『スペイン風邪』が世界的大流行した。
「スペイン風邪」は1918年3月にアメリカ西部の兵営で発生し、全世界で患者数約6億人、死者は全世界で2,000万~4,000万人とも言われている。日本国内でも約40万人前後の死亡者がでた。当時の日本の人口は約5,700万人、現在の日本の同じ率で当てはめると120万人の死亡者に相当する。
「スペイン・風邪」が流行っているさなか、第一次世界大戦が終結した大正8年(1919年)1月15日フランス陸軍フォール大佐率いるフランス航空教官団が航空技術を日本に伝えるため来日した。(フランス航空教育団につきましてはこちらの記事https://tokorozawanavi.com/news-bun20200513/で)
1月20日に国分寺駅経由で所沢駅に到着した。当初半年の予定よりであったが、フォール大佐の働きかけによって延長され、1年9ヶ月の長きにわたって62名が2団に分かれ、我が国の航空教育に当った。所沢飛行場では気球に関する教育・機体製作術を教えた。航空技術団の影響は所沢町にも反映し、飲食店などが次々に開業し、また日本人との文化交流に接し、町の発展に大いにつながった。
フォール大佐胸像は所沢航空記念公園内
所沢で製作中のニューホール24C1(甲式三型戦闘機)
写真:(株)第一印刷
【所沢のスペイン・風邪の感染者】
大正7年、所沢の当時のスペイン風邪の感染は、11月上旬から流行のきざしがみられ、感染者は所沢町1,621人、吾妻村80人、山口村500人、小手指村300人、松井村320人、柳瀬村30人、富岡村100人、三ヶ島村150人と報道されている。
記録が残る富岡村では「罹患者180人」とあり、報道後も拡大していったこと、村全人口約4,000人の4.5パーセントが罹患したことがわかる。また、松井村では注意喚起と予防のチラシが村内に配られた。潜伏期間は1~3日と短く、39度から40度の高熱が出ると書かれてある。
内務省衛生局作成 ポスター
【全国のスペイン風邪の状況】
スペイン風邪は、大正7年(1918)年の10月「第一波」に本格的に始まり、さらに翌大正8年12月に「第二波」として、日本を襲った。
◎「第一波」1918年8月~1919年7月 患者21,168,398人、死者257,363人。
当時の日本国内の総人口5,719万人に対し、「第一波」の総患者数は2,1168,398人。すなわち国民の約37%がこの期間にスペイン風邪にかかったことになる。
◎「第二波」1919年8月~1920年7月 患者2,412,097人、死者127,666人。
◎「第三波」1920年8月~1921年7月 患者224,178人 死者3,698人。
◎合計、患者23、804,673人、 死者388,727人。
文献「日本を襲ったスペイン」によると、当時は戦時中ともあってか、学校や軍隊を中心に3週間ほどで全国に広がった。最も早くは、10月9日付けの『大阪毎日新聞』で、水戸の歩兵第二聯隊および工兵第一四大隊で、将校20名、下士卒1189名の感染者が出た。また10月16日『東京朝日新聞』は、愛媛県善多群大州において、約600名の患者があり、中学校生徒、高等女学校寄宿生に多く、39度~40度の熱が1週間にわたって続き、そのため休校になったことを報じている。運動会も各校で中止となった。医療従事者、郵便局員や電話局員、炭鉱労働者、鉄道会社従業員奪い、経済活動に支障が出る。
内務省衛生局作成 ポスター
このような状況に対して、当時の内務省衛生局が1919年1月に「流行性感冒予防心得」を公開した。
「咳やクシャミをすると目に見えない程微細な泡沫が周りに吹き飛ばされ、それを吸い込むとこの病気にかかる」ので「病人、咳をする者には近寄らない」「沢山人の集まっている所(芝居、活動写真、電車など)に立ち入らない」、「咳やクシャミをする時はハンケチ、手ぬぐいなどで鼻、口を覆う」ことが重要であると書かれています。
参考文献、引用 日本を襲ったスペイン ・ インフルエンザ ・ 感染爆発 ・四千万人を殺したインフルエンザ ・ ところざわ歴史物語 ・ 日仏航空関係史 ・ フランス航空教育団